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コラム

2011年8月30日 火曜日

戦争の責任(2)

先の戦争が終わって、65年が経ちます。前回に提起した3つの問題に入る前に、実は一番大きな、前提となる問題があります。それは、「なぜ日本と日本人は、戦争の問題を正面から議論しなかったのか」と言う問題です。日本軍人と東南アジアの住民を中心におよそ600万人がこの戦争で死亡しました。なぜこの戦争を書面から論じようとしないのでしょうか。戦後の教育においても、詳細な歴史的事実、日本経済の状態、政治的状況そして何よりも当時の日本人の内面を知る必要があります。しかし、それらの真実に迫る、踏み込んだ思考は示されませんでした。実に、私自身にとっても昭和10年代から20年までは、事実の羅列しか認識がありません。
そして前回提起した問題を少しかたちを変えて議論することとします。

1、戦争を日本人や社会はどう受け止めたのか。
2、戦争行為そのものを罪として問うことの是非と問題。
3、なぜこの裁判を日本は受け入れたのか。
4、戦争を起こした責任はどのように問われるべきであったのか。

問題が大きすぎて私の手に余りますが、出来るだけ書き続けます。

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2011年8月28日 日曜日

戦争の責任ー東京裁判

戦後おこなわれた東京裁判は、2次大戦における日本軍の行為に対する罪を認め、起訴されたA級戦犯の多くが有罪になりました。この裁判はおおくの議論がなされました。
裁判は、通常のこうした裁判で裁かれる戦争犯罪だけではなく、戦争を起こしたことそのものを問う「平和に対する罪」も重要な犯罪として裁こうとしました。この裁判には当然多くの疑問点が投げかけられ、その正当性に大きな問題を残すことになりました。
以下に、いくつかの問題を順番に議論することとします。
1、戦争行為そのものを罪として問うことの是非と問題。
2、なぜこの裁判を日本は受け入れたのか。
3、戦争を起こした責任はどのように問われるべきであったのか。
続く

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2011年8月24日 水曜日

東条大将と戦陣訓

部下の多くを戦陣訓によって殺害してしまった東条大将は、「生きて捕虜になるな」と言う自分の教えを実行することは出来ませんでした。自殺に失敗したからそれでよいとは戦陣訓には書いていません。「死ね」と書いてあるのですから、自殺の失敗は戦陣訓にそむいています。しかも失敗によって作られた傷は、米軍軍人の輸血や手厚い看護によっていえました。そのことについて彼は、自殺に失敗したことを持ってそれで自分は責任を果たしたのだと言うなんとも理解しがたい態度でした。
他人に押し付けた行動と、自分のとるべき行動の背反は東条大将に限ったことではありませんでした。特攻隊の司令官であった冨永恭次は、その前から体の不調を理由に前線からの離脱を図り、敵前逃亡と言われていましたが、特攻隊の司令官として62回にわたって約400機の特攻を命令しパイロット達を全員戦死させました。特攻隊出撃前には「諸君はすでに神である。君らだけを行かせはしない。最後の一戦で本官も特攻する」と訓示しましたが、戦後もしぶとく15年間を生き延びました。

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2011年8月23日 火曜日

戦陣訓と巣鴨プリズン

巣鴨プリズンというのは、いわずと知れた連合国側が日本戦犯を収容する刑務所です。あろうことか戦陣訓の作者東条大将は、連合国の捕虜となり、東京裁判にかけられることになります。
東京裁判に問題があったことは多々指摘をされていますが、日本国民が本来裁くべき(裁判でと言うよりも、事実を解明するため)この戦争を、アメリカ軍やこの裁判の意味を知っていた少数の日本人指導者は、A級戦犯を国体護持(天皇制を守り、天皇への戦争責任の追及から天皇を守るための見返りとして差し出しました。この裁判が以下に不合理な物であろうと、そのことを世論に訴えて本格的に争うわけにはいかなかったのです。(この裁判の問題、この戦争の問題や、戦後処理に対する教育など国民の目から遠ざけられた問題については稿を改めます。)
語るべきことはあまりに多くありますが、本題に戻りますと、東条大将は連合国軍による逮捕の日、胸を拳銃で撃って自殺を図ります。この行為を東条大将は後に、「捕虜になるぐらいなら死ね」と言っていた自分が、死なないわけにはいかなかった。と語っていますが、自殺の失敗には非難が渦巻きました。私もこの点を調べてみて、なぜ右手で持った拳銃で自分の心臓を打ち抜けなかったのかを疑問に思いました。拳銃で自殺する際には、頭を撃つか口の中で脳に向けて発砲するのが普通だと思っていたので、なぜ服の上から心臓を狙ったのかよく分かりません。本来左利きであった東条大将が右手で打ったから失敗したのだと言うような弁明もありましたが、ではなぜ米軍の逮捕のときに自殺を図ったのかは説明することが出来ません。逮捕の前に、実質的に捕虜になっていたわけですから。その後も自殺することなく、裁判で絞首刑が言い渡され、1948年に処刑されるまで行き続けました。もちろん、生きて戦争の真実について、多くを私達に方ってほしかったので、生きていることには、問題があったとは思いませんが、複雑な気持ちを持った人たちは多く居たのではないでしょうか。

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2011年8月20日 土曜日

戦陣訓

カウラの大脱走で、強硬派の根拠となった戦陣訓は、1941年当時の陸軍大臣・東條英機が示達した訓令(陸訓一号)です。問題となる箇所をそのまま載せます。
「恥を知る者は強し。常に郷党(きょうとう)家門の面目を思ひ、愈々(いよいよ)奮励(ふんれい)してその期待に答ふべし、生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿(なか)れ「」と言うものです。構成にいろいろと解釈する人はいますが、その多くは東条英機大将を擁護しようとするものですが、戦陣訓を直に読めば捕虜になることは恥であるから、捕虜になるよりしを選べとしか読めません。第一、登場対象はこの解釈に一度も異議を唱えませんでしたし、少なくともその解釈を訂正しませんでした。戦陣訓にしたがって多くの人が命を落としました。軍人だけではなく、民間人に死を強要する根拠ともなったのですが、それにすら東条大将は何も言いませんでした。
1945年(敗戦の年)9月11日東条は、自殺未遂事件を起こします。後に東条は、巣鴨プリズンでこのときのことを「戦陣訓で捕虜になるよりも自殺しろと言ったのだから自分も自殺しようと思った」とかったったそうです。このことからも東条が戦陣訓をどう考えていたかも明らかです。また、戦陣訓に基づいて、「日本軍人に捕虜はいない」と言う内閣の考え方を内閣総理大臣としてつらぬきとおすわけですから、戦陣訓を好意的に解釈しようとする試みは、通用するはずもありません。



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2011年8月19日 金曜日

カウラの大脱走

カウラの大脱走事件と言うのは、第二次大戦の終戦の前年、日本軍が敗色濃厚(と言うよりも敗戦に突き進んでいた)であった昭和18年8月5日に起こりました。オーストラリア軍の捕虜となった2200名の日本人軍人の内1100余名が、オーストラリア連邦ニューサウスウェールズ州のカウラに収容されました。
収容された日本軍人達は、「生きて虜囚の辱めを受けず」と言う日本軍の戦陣訓にしたがって、生きて命を永らえるよりも死んで国のために尽くそうと決めました。そのためにこの捕虜収容所で脱走事件を起こし、オーストラリア軍の戦力を削ぎ、日本軍の助けにしようと考えたと思います。実際に脱走事件を決めるに当たっては、葛藤があったそうです。しかし主戦派の強硬な主張に押されるようにして、決死の脱走が決められたそうです。
脱走は決行されましたが、すぐに鎮圧されたそうです。バットや食事用のナイフ・フォークなどが武器なのですから、機関銃を装備したオーストラリア兵にかなうはずもありません。死者数235名(オーストラリア人4名、日本人231名)、負傷者数日本人108名を出してあっけなく事件は終結しました。
何ということか、日本政府は、事件を把握していましたが、「生きて辱めを受ける捕虜は日本軍にはいない」と言う立場を変えず、この事件を黙殺しました。また、この事件を潜り抜けて日本に帰還した人たちは、捕虜であったことをひた隠すために、周りの人にこの事件を伝えなかったと言うことでした。

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