コラム
2011年12月 6日 火曜日
ミーちゃん(6)
とりあえず無事でいることが分かって、ほっとしています。
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2011年11月27日 日曜日
野良猫みーちゃん(5)
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2011年11月21日 月曜日
野良猫みーちゃん(4)
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2011年11月 9日 水曜日
野良猫みーちゃん(3)
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2011年10月30日 日曜日
何か変 監督
それにしても野球選手のこのような感覚には驚かされます。長島監督も野村監督も野球選手としては渇して能力が高かった訳けではない息子を自分の球団に就職させていました。子供の何に期待しようとしたのでしょうか。これでは大リーグと対等になるのは無理ではないでしょうか。ワールドシリーズに出場したティームの監督は、18歳で大リーグデビューし数年後には目が出ないうちに野球をやめ、多分大学に行って弁護士資格を取って、再び今度はコーチとして大リーグに復帰したそうです。日米の野球人の意識の差に情けなくなります。
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2011年10月11日 火曜日
野良猫みーちゃん(2)
ただ、私を見る目の表情が変化してきたように感じます。はじめは警戒心に溢れていたのですが、今の視線は少しやわらかくなってきたようです。多分、毎朝6時ごろに餌を持っていくので、待つようになっていると思います。餌を持っていくと私の目を見ています。足が不自由なので、歩き回る姿は変なのですが、血が止まって傷口が悪化していなければうれしいのですが。
いつも寝ているところに雨よけのハッポースティロールの箱の蓋を置いています。寝ているところの下には軽いのような石を敷いてあります。ミーちゃんがトイレにでも出かけていないときにしきましたが、下からの寒さへの助けにはなるでしょうが、大丈夫でしょうか。実は大き目のハッポースティロールの箱を2つ組み合わせて小屋風にしたものをミーちゃんが寝ている場所のすぐ向こう側においてみました。これを使ってくれるようになるといいのですが。
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2011年10月 1日 土曜日
野良猫みーちゃん(1)
猫はきれいな顔で、ずっと捨てられていたようには見えませんでしたから、どこかの飼い猫かなと思ったのが第一印象でした。ただ、怪我をしてから満足に餌を食べていなかったのか、やせてちいさな体でした。
その日から、猫餌を餌入れに入れて与え始めました。(我が家には捨て猫出身のジジオ君という名の去勢されたオス猫がいますので、餌や食器などは余分があります。)そのときは、彼(彼女?)の警戒心が強く、また猫のねぐらや日中の居場所は分かりませんから、適当に餌を置いておくと人間の姿のないときに食べていたようです。彼(彼女?)の警戒心の強さは、野良猫には普通のものだったのかもしれません。あるいは、怪我に人間が関係していたために、普通よりも強い警戒心を持っていたのかもしれません。
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2011年9月30日 金曜日
小沢氏秘書有罪判決と朝日新聞(2)
これは、朝日新聞が小沢氏の親分といわれた田中角栄との確執を、田中角栄亡き後小沢氏に対してまで引きずっていることから来ていると思います。なにが朝日と田中・小沢両氏の間にあったのかはっきりと知りたい物です。いつか、明らかにされたときには朝日も傷つくようなことが秘められているのかもしれません。
このわけの分からない両者の確執が、朝日の報道の背後に隠されているのではないでしょうか。そのことが、「理由のよく分からない判決への賛辞」と「小沢氏の体質批判」という奇妙な主張に現れているのではないでしょうか。
実は、朝日の主張にはしばしばこうした理解しがたい面が見えることがあります。「悪者をやっつけるためには筋が通らなくてもいいのだ」という態度は、朝日も分かったうえで、読者には分からないだろうとたかをくくっているようなところがあります。残念ながら、本当のインテリになりきれないゆえんです。
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2011年9月28日 水曜日
小沢氏秘書有罪判決と朝日新聞
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2011年9月27日 火曜日
ドル危機、ユーロ危機
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2011年9月18日 日曜日
朝赤龍
これにたいして、朝赤龍の3文字の内の朝と龍は東を意味しています。ところが赤は、方角を表す言葉としては東ではなく南を表す言葉で、朱雀門と言う門がありますがこれは都や宮殿の南側に位置し、南の方角を守る門です。動物で言えば龍ではなく鳥をあらわします。
と言うように、朝赤龍と言う言葉は、漢籍から言えばそれ自身で意味を成さなくなっています。彼ほどの強い力士はもっとちゃんとした四股名を持つべきで、モンゴル人である彼にはそんな知識はないのですから、親方がしかるべき人に相談するべきだったと思います。この件に関しては、相撲協会に責任があると思います。大鵬の場合には、笑い話を題材にとった名前であることを承知の上で四股名にすると言うのはありだと思いますが、朝赤龍の場合には、その意味を親方や本人に知らせた上でアドバイスを出来る相談者を用意するべきだったのではないでしょうか。
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2011年9月13日 火曜日
大鵬と朝青龍
「四股名は記号だから何でも良いのだ。」と言う人がいます。本当にそうでしょうか。文字にも言葉にもそれぞれ意味があります。また、成り立ちや来歴があります。もっと言えば、文字や言葉は文化そのもので、文化としての歴史を持っています。日本人の文化的素養が疑われてしまいます。もし知らずに使ってしまったと言うのであれば、相撲協会に問題があるのではないでしょうか。四股名を漢籍から採用するのであれば、専門家の意見を聞くべきです。
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2011年9月 8日 木曜日
大鵬(2)
大鵬の全盛時代に高校生だった私は、学校の先生に『大鵬』の出典と意味を教わった記憶がありました。ちょっと調べたいことがあって、「大鵬」とその出典である「斉諧」を調べましたが、「大鵬」はただ伝説上の大きな鳥だと言う以上の意味は出てきません。「斉諧」も荘子の本だという以上の意味は出てきません。日本人の漢字=記号的な考え方が、中国の古典を理解するのを妨げているのではないかと危ぶんでいます。
はっきりと知りたくなった私はヤフーの知恵袋に、この辺りのことの教えを請いました。回答はなんともがっかりです。「そんなことはどうでもいい。大鵬という横綱がいたということでいいではないか」と言うのです。「大鵬」に込めた荘子の気持ちや考えを想像してみるのは、それ自身だけでは何のとくにもなりませんが、「鵬」の字の意味を知らないよりは知ったほうが楽しく豊かな知識だとは思いませんか。そして楽しく豊かな知識は人生を楽しく豊かなものにするのではないでしょうか。
昔、府中の国際通のスナックに友人と入ったときのことを思い出しました。その店のカウンターの中にいた女性(多分ママ)がアオザイを着ていたのです。アオザイはいわずと知れたベトナムの民族衣装です。私は、何かベトナムとの繋がりやベトナムに対する思い入れが話として聞けるかと期待し、「アオザイだね」と話を向けました。何と彼女の答えは「え?なにそれ」というものでした。華やかな色彩の美しいベトナムの民族衣装を着ていた彼女は、ただたんにきれいで自分に似合うと思ってそれを買ったのだそうです。ベトナムについての薀蓄でも語ってくれたら楽しい夜になったろころですが。
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2011年9月 4日 日曜日
大鵬
この「逍遥遊」が収められた、「斉諧」と言う著書は、字のごとく「全て(=斉)ざれ言(=諧)」と言う意味です。大鵬を大きな鳥などと理解してはいけません。冒頭の「北冥」からして本当の話ではないことは明らかです。冥界のことだというわけです。しかも念入りに、大きな魚を「鯤」と言うわけですが、これは小魚を意味する感じですし、「鵬」は小鳥のことです。最も作字ですから、具体的にどの鳥を指すのかは分かりません。しかし偏の朋は群がる物を意味します。友とか仲間と言うような意味です。これをとりにすると、雀や雁などということになります。鷹など強い鳥は、群れを作りません。荘子は、鳳と音が同じ朋に鳥をつけてしかも意味が逆の鳥をあらわして、笑い話として完成させたのです。
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2011年8月30日 火曜日
戦争の責任(2)
そして前回提起した問題を少しかたちを変えて議論することとします。
1、戦争を日本人や社会はどう受け止めたのか。
2、戦争行為そのものを罪として問うことの是非と問題。
3、なぜこの裁判を日本は受け入れたのか。
4、戦争を起こした責任はどのように問われるべきであったのか。
問題が大きすぎて私の手に余りますが、出来るだけ書き続けます。
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2011年8月28日 日曜日
戦争の責任ー東京裁判
裁判は、通常のこうした裁判で裁かれる戦争犯罪だけではなく、戦争を起こしたことそのものを問う「平和に対する罪」も重要な犯罪として裁こうとしました。この裁判には当然多くの疑問点が投げかけられ、その正当性に大きな問題を残すことになりました。
以下に、いくつかの問題を順番に議論することとします。
1、戦争行為そのものを罪として問うことの是非と問題。
2、なぜこの裁判を日本は受け入れたのか。
3、戦争を起こした責任はどのように問われるべきであったのか。
続く
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2011年8月24日 水曜日
東条大将と戦陣訓
他人に押し付けた行動と、自分のとるべき行動の背反は東条大将に限ったことではありませんでした。特攻隊の司令官であった冨永恭次は、その前から体の不調を理由に前線からの離脱を図り、敵前逃亡と言われていましたが、特攻隊の司令官として62回にわたって約400機の特攻を命令しパイロット達を全員戦死させました。特攻隊出撃前には「諸君はすでに神である。君らだけを行かせはしない。最後の一戦で本官も特攻する」と訓示しましたが、戦後もしぶとく15年間を生き延びました。
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2011年8月23日 火曜日
戦陣訓と巣鴨プリズン
東京裁判に問題があったことは多々指摘をされていますが、日本国民が本来裁くべき(裁判でと言うよりも、事実を解明するため)この戦争を、アメリカ軍やこの裁判の意味を知っていた少数の日本人指導者は、A級戦犯を国体護持(天皇制を守り、天皇への戦争責任の追及から天皇を守るための見返りとして差し出しました。この裁判が以下に不合理な物であろうと、そのことを世論に訴えて本格的に争うわけにはいかなかったのです。(この裁判の問題、この戦争の問題や、戦後処理に対する教育など国民の目から遠ざけられた問題については稿を改めます。)
語るべきことはあまりに多くありますが、本題に戻りますと、東条大将は連合国軍による逮捕の日、胸を拳銃で撃って自殺を図ります。この行為を東条大将は後に、「捕虜になるぐらいなら死ね」と言っていた自分が、死なないわけにはいかなかった。と語っていますが、自殺の失敗には非難が渦巻きました。私もこの点を調べてみて、なぜ右手で持った拳銃で自分の心臓を打ち抜けなかったのかを疑問に思いました。拳銃で自殺する際には、頭を撃つか口の中で脳に向けて発砲するのが普通だと思っていたので、なぜ服の上から心臓を狙ったのかよく分かりません。本来左利きであった東条大将が右手で打ったから失敗したのだと言うような弁明もありましたが、ではなぜ米軍の逮捕のときに自殺を図ったのかは説明することが出来ません。逮捕の前に、実質的に捕虜になっていたわけですから。その後も自殺することなく、裁判で絞首刑が言い渡され、1948年に処刑されるまで行き続けました。もちろん、生きて戦争の真実について、多くを私達に方ってほしかったので、生きていることには、問題があったとは思いませんが、複雑な気持ちを持った人たちは多く居たのではないでしょうか。
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2011年8月20日 土曜日
戦陣訓
「恥を知る者は強し。常に郷党(きょうとう)家門の面目を思ひ、愈々(いよいよ)奮励(ふんれい)してその期待に答ふべし、生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿(なか)れ「」と言うものです。構成にいろいろと解釈する人はいますが、その多くは東条英機大将を擁護しようとするものですが、戦陣訓を直に読めば捕虜になることは恥であるから、捕虜になるよりしを選べとしか読めません。第一、登場対象はこの解釈に一度も異議を唱えませんでしたし、少なくともその解釈を訂正しませんでした。戦陣訓にしたがって多くの人が命を落としました。軍人だけではなく、民間人に死を強要する根拠ともなったのですが、それにすら東条大将は何も言いませんでした。
1945年(敗戦の年)9月11日東条は、自殺未遂事件を起こします。後に東条は、巣鴨プリズンでこのときのことを「戦陣訓で捕虜になるよりも自殺しろと言ったのだから自分も自殺しようと思った」とかったったそうです。このことからも東条が戦陣訓をどう考えていたかも明らかです。また、戦陣訓に基づいて、「日本軍人に捕虜はいない」と言う内閣の考え方を内閣総理大臣としてつらぬきとおすわけですから、戦陣訓を好意的に解釈しようとする試みは、通用するはずもありません。
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2011年8月19日 金曜日
カウラの大脱走
収容された日本軍人達は、「生きて虜囚の辱めを受けず」と言う日本軍の戦陣訓にしたがって、生きて命を永らえるよりも死んで国のために尽くそうと決めました。そのためにこの捕虜収容所で脱走事件を起こし、オーストラリア軍の戦力を削ぎ、日本軍の助けにしようと考えたと思います。実際に脱走事件を決めるに当たっては、葛藤があったそうです。しかし主戦派の強硬な主張に押されるようにして、決死の脱走が決められたそうです。
脱走は決行されましたが、すぐに鎮圧されたそうです。バットや食事用のナイフ・フォークなどが武器なのですから、機関銃を装備したオーストラリア兵にかなうはずもありません。死者数235名(オーストラリア人4名、日本人231名)、負傷者数日本人108名を出してあっけなく事件は終結しました。
何ということか、日本政府は、事件を把握していましたが、「生きて辱めを受ける捕虜は日本軍にはいない」と言う立場を変えず、この事件を黙殺しました。また、この事件を潜り抜けて日本に帰還した人たちは、捕虜であったことをひた隠すために、周りの人にこの事件を伝えなかったと言うことでした。
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